こんにちは、メイです。みなさんは毎月9日の11時2分に、市役所の防災行政無線から「千羽鶴」という曲が流れていると知っていましたか?
建物の中にいると気づきにくいですが、もしかしたら一度くらいは何処かで耳にしているかもしれません。千羽鶴は原爆で犠牲になった人たちのご冥福を祈り、核兵器廃絶や世界の平和を願って2001年から放送されています。
このように長崎市では、毎月放送で平和の尊さを伝える取り組みをしていますが、長崎の街にはいつでも見ることのできる原爆に関するスポットがたくさんあります。
今回は「永遠の平和」を祈るスポットとして作られた平和公園や、戦争や原爆の恐ろしさを伝え続けるために残された、一度は見ておいて欲しい長崎原爆に関連する12ヶ所を紹介します!
2016年に長崎原爆遺跡として国の史跡に指定されている、貴重な5つの場所も含めていますよ!中には指定された場所を知らない人もいると思うので、名前の横には【国指定史跡】と書いています。
1.平和公園
原爆落下中心地の近くにあり、昭和26年に世界平和の願いを込めて作られた公園です。被爆10周年の1955年8月8日には、平和記念像が完成しました。空に伸ばした右手と水平に伸ばした左手のポーズが有名ですが、右手は「原爆の脅威」、左手は「平和(長崎の未来)」を表しています。
公園には、世界中から贈られた「平和と人類」を形にしたモニュメントや、一般公開されている防空壕もありますよ。
毎年8月9日には平和祈念式典を行い、世界各国へ向けて平和宣言をしています。
式典の前日は公園内にある「平和の泉」の周りに、県内の小中学生が作ったキャンドルを並べ犠牲者を慰霊します。この「平和の灯」は、被爆50周年のときから毎年開催されてきました。
問合せ:095-829-1171(まちづくり部 みどりの課)
アクセス:松山電停から徒歩3分ほど
2.爆心地(通称 爆心地公園)【国指定史跡】
1945年、松山町の上空500メートルで原子爆弾がさく裂しました。同年には原爆落下中心地碑が建てられ、原爆により亡くなった人たちのご冥福を祈る「祈りのゾーン」となっています。
中心碑の前にある原爆殉難者名奉安箱には、爆死した人と亡くなられた被爆者の氏名(複製)が保存されています。
公園内には移設されてきた浦上天主堂の遺壁や、破壊された瓦やガラスなどがそのまま埋まった被爆当時の地層があります。原爆の威力や悲惨な状況を改めて感じる場所ですよ。
焼け野原になったこの地は、「今後70年は草木も生えないだろう」と言われていましたが、いま現在はたくさんの植物も生え、500本もの桜が植えられている緑の地になりました。
問合せ:095-829-1171(長崎市みどりの課)
アクセス:松山電停から徒歩3分ほど
3.原爆資料館
画像引用:ながさき旅ネット
原爆による被害の状況や原爆が投下されるまでの経過、核兵器開発の歴史などテーマに沿って展示しています。
原爆が投下された11時2分で止まった時計や、被爆した被災資料などがあり、原爆による凄惨な被害の様子を実物やレプリカで確認できますよ。
被災記録を編集した映画や、被爆者の証言なども映像で見ることができ、写真の展示物などより一層原爆の恐ろしさが伝わってきます。
原爆資料館では毎年企画展示が開催されたり、図書室には約2万5千冊の「原爆・平和」関連の書籍が置かれたりしているので、定期的に訪れる価値のあるスポットですよ。
問合せ:095-844-1231
4.国立長崎原爆死没者追悼平和祈念館
画像引用:あっ!とながさき
原爆死没者追悼平和祈念館は、被爆地の長崎と広島に設置されています。長崎では2014年に完成し、翌年開館されました。
被爆者の遺影や手記・体験記、音声・映像などがあり自由に閲覧したり視聴ができます。被ばく医療に関わった人の活動や研究なども紹介されているので、原爆資料館とは違った角度から原爆について知ることができますよ。
企画展や講和も盛んに行っていて、来館者はいつでも平和へのメッセージを登録していくこともできるので、積極的に平和について考える時間が作れます。
長崎の原爆死没者追悼平和祈念館は「国際協力及び交流」を特徴にしていて、学生向けですが、長崎への訪問予定がない遠隔地とインターネットを繋いで、被爆者の講和を聞いたりできる学習プログラムもあります。
問合せ:095-814-0055
5.一本柱鳥居【国指定史跡】・被爆クスノキ(山王神社)
画像引用:ながさき旅ネット
当時、山王神社は爆心地から南東約900mの場所にありました。参道には4つの鳥居がありましたが、一の鳥居と右半分の柱だけになった二の鳥居だけ残りました。
一の鳥居は爆風に対して平行に立っていたためか、ほぼ原形のまま残っていましたが、交通事故により1962年に倒壊してしまいました。
二の鳥居は現在も、当時のまま片方だけ立っており、鳥居の奥には柱の残骸を置いています。
山王神社の境内入り口には2本のクスノキがあり、どちらも原爆により3分の1以上がなくなり枯れてしまう寸前でした。
無残な状態になりながらも、2年程度で再び新芽が出て現在はすっかり復活しています。
電話:095-844-1415
6.浦上天主堂旧鐘楼【国指定史跡】
画像引用:あっ!とながさき
浦上天主堂は爆心地から約500mの場所にあり、爆風によって倒壊しました。聖堂や司祭館など一部残った部分もありますが、敷地内にあった石像などほぼ大破していました。
現在の浦上教会は1959年に再建されていて、後に当時の姿に合わせてレンガで復元しています。
信徒会館2階には「被爆マリア像」と呼ばれる聖母像や、焼け跡から掘り出されたものなど展示されていますよ。
敷地内の土手には爆風で飛ばされた長崎原爆遺跡の旧鐘楼や、植え込みには黒く焦げた石像などが残されているので、原爆の爆風や熱線による被害状況をまざまざと感じます。
電話:095-844-1777
7.旧長崎医科大学の門柱【国指定史跡】
画像引用:ながさき旅ネット
爆心地から約600mの場所にあり、全壊・全焼しています。
当時は多くの生徒が受講中で、逃げる間もなく建物の下敷きになったり焼死しました。焼け跡には席に座ったままの学生の遺骨もあったそうです。
幸い脱出できた人が30人ほどいましたが、全員が14日以内に急性放射能症で亡くなりました。受講中だった学生は、誰1人生存できなかったのです。
医科大学門柱は爆風により9センチずれて傾き、最大で16センチの隙間ができています。この門柱は原爆による爆風の圧力を調べる基礎になりました。
門柱の側には「わが師わが友、850有余もが死に果てし、長崎医科大学の正門門柱にて、被爆当時のまま状態を生々しくここに見る」と刻まれた石板があります。
8.長崎市立山里小学校(山里国民学校)
画像引用:あっ!とながさき
山里小学校は爆心地から600mほどの場所にあり、校舎は北側の1・2階を残して全焼しました。当日は在校していた職員や用務員32名の内、28名が犠牲になりました。児童は登校していませんでしたが、在籍していた1581人のうち約1300人が自宅などで亡くなったそうです。
被爆状況を調べる為に10月1日に児童に集めたところ、登校したのは100人ほどで、みんな栄養失調で青白く、裸足の子もいるなどみすぼらしい格好でした。
そして10月下旬に長崎師範学校から焼け残っていた校舎を借りて、授業を再開しました。でもその教室は拾い集めた材木で仕切っていて、窓ガラスもなかったので、寒さに耐えながら授業をしたそうです。
平和学習が盛んな山里小学校には、現在も整備された防空壕が残されています。永井隆博士が作詞した「あの子」は、校歌と同じくらい大切に歌い継がれています。
※見学したい場合は学校に問い合わせてください
9.長崎市永井隆記念館
画像引用:長崎市
8月9日、永井博士は爆心地から700mほどの場所にある、長崎医科大学の研究室にいました。
永井博士は原爆で右半身に重傷を負いながら、自身が失血で倒れるまで救護を続けたのです。
当時永井博士は白血病と診断され、余命3年と言われていました。その上に急性原子病も重なりましたが、自分の体を実験台にしながら原爆症の研究を進めました。
また、昭和25年には私財を投じて、戦争や原爆で傷ついた子どもたちのために「うちらの本箱」という図書室を作りました。いまも記念館の2階は図書館ですが、「長崎市永井隆記念館」という名前になり、博士の写真や遺品など展示されています。
電話:095-844-3496
入場料:一般100円、小・中・高校生 無料
10.如己堂(にょこどう)
画像引用:あっ!とながさき
如己堂は「長崎市永井隆記念館」の隣にあり、2人の子どもと暮らす博士の病室兼書斎でした。
昭和26年に亡くなるまで、永井博士は如己堂から戦争や平和について発信してきたのです。
この家は、被災して無一文になった永井博士のために、浦上の人たちによって建てられました。そのことから、「己の如く隣人を愛せよ」という意味で如己堂(にょこどう)と付けられます。
永井博士は寝たきりでしたが、執筆活動に励んでいました。戦争や原爆、平和への願いを込めて発信し続け、世界からは博士のもとへ多く人が訪れました。1973年には、ヘレン・ケラーも見舞に訪問しました。
入場料:無料
11.旧城山国民学校校舎(城山小学校平和記念館)【国指定史跡】
画像引用:ながさき旅ネット
旧城山国民学校は、爆心地から500mの距離にあり、教職員28名、児童1,400名ほどが被害を受けました。
現在の城山小学校校内には、被爆したクスノキや校舎の一部などが残されています。被爆校舎には被爆後の様子を写した写真や、資料が展示されていますよ。
山里小学校と同様に平和学習が盛んで、たくさんのモニュメントや、平和を願い植樹された桜などがあります。
校内遺構の見学は、9:30から16:30まで見学ができます。個人での見学は申込みせずに入れますよ。(※団体は1週間前までに郵送で申込みが必要)
12.大浦天主堂
原爆落下中心地から大浦天主堂までは、約5キロの距離があります。倒壊まではしませんでしたが、正面大門扉やステンドガラス、屋根などが爆風によって大きな被害を受けました。
屋根はぐしゃぐしゃで、ステンドガラスはほとんど割れていたそうです。
これにより5年かかって修復工事をし、1952年に完了しています。
爆心地からはとても離れているように思いますが、ここまで原爆の影響があったんですね。とても恐ろしいです。
大浦天主堂は原爆の他にも信徒発見など歴史的な事柄に関わっており、たくさんの観光客が訪れる長崎の有名なスポットになりました。
電話:095-823-2628
いかがでしたか?長崎の道には、まだまだ沢山の関連遺構や説明版など設置されていますよ。ゆっくり歩く機会があれば、立ち止まって読んでみてくださいね。