【長崎】島原天草一揆(島原の乱)、決戦の舞台となった【原城跡】

1598年から1604年にかけて領主・有馬貴純によって築かれたと言われています。

城はあまりにも美しく、見ているだけで日が暮れるという意味の「日暮城」とも言われいたそうです。

1612年、徳川幕府が「キリシタン禁止令」が発布された中、本多正純の寄力で洗礼名パウロと呼ばれた岡本大八が、キリシタン大名であった有馬晴信を欺くために、大御所家康公の朱印状を偽装するという重大な事件を起こし、見せしめのため大八は火刑に処せられました。
同年、この岡本大八事件をきっかけに有馬晴信も徳川家康の命によって処罰されました。

かつては、日暮城とまで讃えられた原城ですが、島原天草一揆の後、城は破壊され廃城となった。
「原城跡」は、1938年に国の史跡文化財に指定されました。

 

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島原天草一揆(島原の乱)

島原半島には、多くのキリスト教信者がいました。
1637年から1638年にかけて、農民とキリシタンが起こした日本の歴史上最大規模の一揆「島原天草一揆(島原の乱)」です。

領主・松倉重政のキリシタン弾圧ときびしい年貢の取りたてに耐えかねた農民は、「天草四郎(本名、益田四郎)」当時16歳という若さの少年を総大将として戦ったとされています。
一揆の終盤において主戦舞台となったのが、この「原城」なのです。

天草勢も加わり3万人あまりが原城に立てこもり、幕府軍は12万人で取り囲んだが、守りが堅固で何度も攻撃に失敗し、鎮圧するのに4ヵ月かかったそうです。

 

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関連スポット

①国内最大級の虎口遺構

1999年度の調査で、最も本丸寄りの虎口遺構が検出されました。
原城本丸の正面玄関に相当する虎口遺構で、巨大な「虎口(城の主要な入り口)」空間は、本丸の約2分の1という大きさ。
近世初頭の城跡の調査で、同種の遺構の検出例としては国内最大級だと言えます。

 

②ほねかみ地蔵

一揆勃発から約130年後の1766年に、有馬村願心寺注誉住職が敵味方の関係なく遺骨を集めて建立したもの。
「ほねかみ」とは、「骨をかみしめる」という意味で、「自分自身のものにする」、「人々を助ける(救う)」と、理解すべきだと言われています。

文学博士の八波則吉先生は、「骨かみ地蔵に花あげる三万人も死んだげな小さな子供も居たろうに骨かみ地蔵に花あげろ」とうたっています。

 

③空濠(からぼり)

島原天草一揆の際、防衛のために気づかれたとされています。
竹谷木で柱を建てて、カヤで覆ってそこに戦いに出ない老若男女が隠れていたと言われています。

④天草四郎像・天草四郎の墓

島原天草一揆を語るに欠かせない人物「天草四郎」の像。
「長崎平和祈念像」で有名な南島原市出身の彫刻家「北村西望氏」の作品です。
同じ敷地内に天草四郎の墓石があります。

 

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発掘調査

1992年から発掘調査が始り、廃城となった原城跡には、一揆勢の無数の遺体が埋められていて、大量の人骨や鉄砲玉を鋳つぶして作った十字架などが出土しています。
鉄砲玉や、十字架は一揆の最中、作られたものとみられています。

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