閉山から31年!長崎市高島町にある日本初の技術を使った世界遺産・北渓井坑跡とは?

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こんにちは、メイです!様々な炭鉱関連遺構がある高島、閉山からは31年が経とうとしています。高島は軍艦島のすぐ隣にある島で、炭鉱の町でした。高島は石炭の発見も、本格的な採掘も軍艦島より先に行っていました。今回はこの高島にある世界遺産、北渓井坑跡(ほっけいせいこうあと)をご紹介しますね^^

また、北渓井坑跡だけではエピソードが少ないので、高島炭鉱の歴史も振り返りたいと思います。北渓井坑跡までのアクセスも書いていますので、興味を持たれたらぜひ高島に訪れてみてください。

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始まりは江戸時代!高島炭鉱の歴史と概要

1695年(元禄8年)のことです。焚き火をしている時に、木の下にあった黒い石が燃え出したのを見た五平太という人物はとても驚き、当時の領主だった佐賀藩へ届け出ました。これが高島での最初の石炭の発見でした。高島石炭は発見した人物に由来して、「五平太炭」とも言われます。

石が燃え出すところを初めて見たら、パニックになりそうですよね~。私だったら、持ち帰ったりできなかったと思います(笑)

発見された高島石炭は、伊万里や波佐見焼きの窯、塩を作るための塩水を沸かす燃料などに使用されました。採炭は佐賀藩が行っていましたが、1868年(慶応4年)4月から佐賀藩とグラバー商会の合併事業となり、新規採炭事業の共同経営が始まりました。この共同経営は、日本と外国の事業所間で行われた最初の事業でもあります。

石炭産業の基礎をつくり、初めて外国資本の合併事業を行うなど、偉業を成し遂げてきた佐賀藩。幕末に海外に目を向けていたって凄いですよね。なんでも福岡藩と交代で長崎の警護をしていたため、海外の情報に敏感だったそうですよ。

昭和60年に閉山されるまでの高島炭鉱の過去

グラバーが他の事業で大きな赤字を出したことや外資排除が命じられたりして、高島炭鉱は巡り巡って後藤象二郎に払い下げられました。しかし高島炭鉱は経営難に陥り、福沢諭吉らに説得された岩崎彌太郎が1881年(明治14年)に買収します。福沢諭吉と岩崎彌太郎の関係を説明すると、ちょっと長くなりそうなので今回は省略しまーす!

岩崎彌太郎と言えば、三菱の創始者ですね。三菱は高島に鉱山経験者を集めたり、外国人を招聘(しょうへい)しました。招聘とはただ人を呼ぶのではなく、礼を尽くして招くことです。

技術陣も強化した高島炭鉱は再び軌道に乗りますが、石炭から石油へのエネルギー転換のあおりを受けたり、1985年に粉塵爆発事故が起きるなどして、翌年に閉山しました。これにより高島の人口は数百人まで落ち込んだそうです。

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明治時代に最先端技術を使われた北渓井坑

https://www.at-nagasaki.jp/

佐賀藩とグラバー商会の共同経営が始まると、グラバー商会は英国から最新の設備を取り寄せました。イギリス人技師のモーリスも招き、日本最初の蒸気機関による竪坑(たてこう)を開坑します。その翌年1869年(明治2年)に43メートルの深さで石灰層に到着し、北渓井坑(ほっけいせいこう)という名前をつけられました。なんと、ここでは1日に300トンもの出炭をしたと伝えられています。

熱量が高くて不純物が少ないなど良質な石炭が採掘されていましたが、海水が流れこんできたことから1876年に廃坑となりました。廃坑となった後は、貴重な真水を供給する井戸として島の人たちに使用されます。

北渓井坑は、近代的な技術が導入された初期の様子を伝えていく遺跡として国指定史跡になり、2015年に世界文化遺産・明治日本の産業革命遺産に登録されました。

北渓井坑で使われた最先端技術とは?

北渓井坑は日本で初めて蒸気機関が使われ、垂直に掘られた竪坑です。蒸気機関を使った巻揚げ機やポンプなど、近代的な技術が使用されました。

それまで日本では、つるはしを使い手掘りで採掘していました。たぬきの穴のような坑道を作るため、「たぬき堀り」と呼ばれていた方法が一般的だったんです。(たぬきの穴のような所から、黒くなった顔を出す様子がたぬきのようだからとも言われています。)

垂直に掘る「立て坑技法」の技術などは、採掘の効率をうんと高めました。この北渓井坑方式は、三池炭鉱や筑豊炭田でも利用されます。

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北渓井坑跡までのアクセス方法と周辺情報

北渓井坑跡は見学自由なので、入場料などの料金はかかりません。長崎港からのアクセス方法と、高島港ターミナルに着いてから北渓井坑までのアクセス方法は下記の通りです。

【長崎港・伊王島港からのアクセス】

時刻表・料金などの詳細はコチラ
http://www.kanko-takashima.com/access/

【高島港ターミナルから北渓井坑跡まで】

・徒歩で25分
・高島港ターミナルバス停乗車→本町バス停下車→徒歩1分

徒歩で25分ですから、バスで行けばあっという間ですね。

グラバー別邸跡&その他の関連遺構について

明治初期に、グラバーが炭鉱経営の拠点としていた洋式の別邸です。この別邸から、長崎の南山手にある自宅との間には電話線を引きました。日本初の私設電話と言われています。昭和23年頃に、老朽化が原因で取り壊されましたが、北渓井坑跡から奥に入っていくと高島公園があり、別邸の基礎石や井戸跡が残っています。高島にはグラバー別邸跡以外にも関連遺構がありますので、見どころがいっぱいですよ!

関連遺構のマップは、コチラのページの中盤から確認できます。
http://www.kanko-takashima.com/heritage_prologue/takashima/

高島炭鉱史料館についてはコチラから
http://www.city.nagasaki.lg.jp/kanko/820000/828000/p000836.html

高島炭鉱 北渓井坑跡
住所:長崎市高島町99-1
電話:095-829-1193 (長崎市文化財課)

高島は自然豊かで、高島会洲浴場や高島いやしの湯など観光施設にも力を入れています。炭鉱関連遺構だけじゃなく、アクティビティも充実しているので気軽に遊びに出かけてみてくださいね♪

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